「朋あり遠方より来る、亦楽しからずや。」
この有名な一節は、単に「友達が遠方から来てくれて嬉しい」という軽い意味ではありません。
本記事では、この言葉を原文から深く精読し、「説」と「樂」の決定的な違い、
さらには儒教と仏教を結ぶ「修行の階段」までを解説します。
最高の仲間を引き寄せるための人徳を磨く習慣。
その秘密を、中国語の原文とともに探求しましょう。
孔子の教え:「有朋自遠方來」を原文で理解する
有朋自遠方來,不亦樂乎?
yǒu péng zì yuǎn fāng lái,bú yì lè hū?
(簡体字:有朋自远方来,不亦乐乎?)
書き下し文:「朋あり遠方より来る、亦楽しからずや。」
意味:遠くはるばる教えを請いにやって来る者がいる。なんと楽しいことではないか。
文法:“自”は“从”(cóng)と同じで「〜から、〜より」というニュアンス。
【核心キーワード】「朋」「樂」の深い意味
「朋」:志を同じくする者
「樂」:他者との関係性の中で生まれる喜び。外在的なものが引き起こす喜び。
正しい教えを広める、つまり善を他人に及ぼすことで、それを信じ従う者たちが集まってくることを指しています。
内的な充足(説)を持つ者同士が交流することで、その喜びが外に発散され「樂」として共有されることになるわけですね。
当時(春秋時代)は戦乱の時代で、交通も発達していなかったため、遠方からやって来るのは命懸けであり、相当な時間と体力を使う長旅でした。
遠方からわざわざやってくるくらいなのだから、近き者は言うまでもないというニュアンスも含んでいるわけです。
単に友達が訪ねて来たという軽い感じではないのがわかります。
孔子のもとで学んで、その後自分の故郷に戻り、その教えを広めていくのです。
あなたの喜びは「説」か「樂」か? 論語が問う真の幸福
この文は友達と集まることを推奨しているわけではないことに注意です。
「樂」は、外部環境や状況がもたらすものです。一時的なものであり、それを求めろとは孔子は言っていません。
學而時習之,不亦說乎?「学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや。」の「説」は外部環境に影響されることのない、内から湧き出て来る喜びです。
これを求めることが真の喜び、幸福につながります。
「有朋自遠方來」は同じく學而時習之の志がある者であるから「樂」が生まれるのです。
孔子はこう言います。
無友不如己者。
wú yǒu bù rú jǐ zhě
「自分に及ばぬ者は友とするな。」ということです。学ぶ姿勢や志が自分に及ばない者との交流は、自分に影響し、成長が止まってしまう危険性を言っているのです。
「樂」は、内的な充実(説)を伴わない場合、外部の状況に左右される一時的な感情に過ぎません。
孔子が推奨しないのは、この外部依存の「樂」だけを盲目的に求めることであり、それは時として「苦」の原因となります。
しかし、志を同じくする「朋」との交流によって生まれる「樂」は、内なる「説」を外に発散し合う、価値ある喜びであるため、孔子はこれを肯定的に捉えているのです。
以儒修身、以佛治心:『論語』に隠された「人生の修行の階段」
儒家は物質的な生活ではなく、精神的に豊かな生活を重視していたことがわかります。
儒家では欲が表面に出てこないよう抑制することを重視します。
これは学問に依る必要があります。
礼儀(禮)によって人間の行動を規範し、
道義(義)によって心の動きを正すことで、無秩序な欲望が表面化することを防ぎます。
これが『學問』の具体的な実践であり、土台作りとなります。
欲を完全に断ち切るのは仏家の境界になります。
しかし、断ち切るためには、まずは押さえつけることが必要不可欠なのです。
中国の伝統的な教えでは、以下の考え方があります。
以儒修身、以佛治心
(儒をもって身を修め、仏をもって心を治める)
まさに、儒家が日常の倫理的・道徳的な土台を築き、その土台の上で初めて、仏家の究極的な精神の境地である『断ち切り』が可能になるわけです。
善友とは、互いに「礼」や「義」の実践をチェックし合い、欲望に流されそうになった時に正しい道へと引き戻してくれる存在です。
だからこそ、遠方から命懸けで教えを請いに来る(志を同じくする)仲間が必要であり、その交流こそが大きな「樂」となるのです。
孔子の元で学んだ三千人の学生たちは、みな聖賢君子。社会の安定と幸福のために學而時習之、その境界に至った人たちが感じる「樂」を是非とも味わってみたいものです。
不亦樂乎の真髄:人徳が善友を引き寄せる瞬間
周りにいい影響を及ぼすためには、自分のが人間的に成長するのが先です。
その過程は苦痛なものではなく、心からの喜びを感じることができます。
聞譽恐 聞過欣
直諒士 漸相親
wén yù kǒng,wén guò xīn
zhí liàng shì, jiàn xiāng qīn
「褒められたら、喜ぶわけではなく、逆に自分はそれに値するのかと自省する。過ちを指摘されたら、怒るどころか、ありがたく受け取る。こういう人に、正直で誠実な人は徐々にお近づきになるものである。」
『弟子規』の言葉にあるように、人格者になった結果、自然と善友が集まってくるものです。
そのとき不亦樂乎?の本当の意味がわかるのかもしれません。
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