今日は『朱子读书法』(朱熹の読書法)という書籍で出会った一節と格闘しました。
口誦心得,如誦己言。
「口に唱え、心がしっかりその本質をとらえ、自分の血肉になったら、まるで自分が発した言葉のようになる。」
この言葉です。
この文が目に入ったら、「これはノートで熟考すべき」と確信しました。如誦己言をぜひ達成させたいと思ったのです。
格闘したノートです。

どのような格闘があったのか以下具体的に見ていきましょう。
文を単語単位で見てみよう
口誦心得,如誦己言。
Kǒu sòng xīn dé, rú sòng jǐ yán.
「口に唱え、心がしっかりその本質をとらえ、自分の血肉になったら、まるで自分が発した言葉のようになる。」
「口誦」:音読をする。口で唱える。
「心得」:心で会得する。名詞の「心得」ではなく、名詞の「心」と動詞の「得」からできている言葉です。
「如」:比喩表現で「まるで〜のようだ」というニュアンス。
「己言」:自分の言葉、「自己的言语」ということ。
格闘した記録(切己体察)
1時間で前半30分は「切己体察」(自分ごととしてとらえる)、後半30分を「疑義」(あえて疑ってみる)をしました。
今読んでいる「論語」の一節とリンクした
「如诵己言」まで到達するためにはその言葉の奥義を理解すると共に、自分自身が、身を持って実行し、実行が無意識でできるくら自分の身体に刺む必要がある。
今学んでいる論語の一節一節が自分の口から、自分からわき出た言葉のようにするにはどうすればよいか。実行するということは行仁ということか。
そうであれば「孝弟」(親への孝行と目上の人への尊敬)が行仁(仁を実行すること)の本(根本)であるから、まずは何をおいても「孝弟」である必要がある。
>>【論語】「孝弟也者,其爲仁之本歟?」解説|二日間格闘して、自分の未熟さに泣けてきた話
鳥が飛ぶように当たり前まで
「口诵」とあることから常にその一節が口にのぼってくるくらまで唱えるのがいいかもしれない。
完全に自分のものにするためには、常に繰り返して、それが当たり前になる位までにしないといけない。
それこそ「学而時習之」(学びて時に之れを習う)で鳥が飛ぶ練習をするように何度も何度もくり返し、飛べるようになれば、意識せずとも当然のように飛ぶようになる。
>>漢字のたね「学」
>>漢字のたね「習」
この思考の中でこの一節が浮かんできたことは一歩前進の証かもしれない。
「楽」と「説」
「知っている」と「できる」はちがうように、その間には大きな壁がある。
「知之者不如好之者,好之者不如樂之者」(「これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず。」)も忘れてはいけない。
それをやって「楽」を感じるようでないとダメだ。この「楽」もおそらくは「説」を基にしている、よってまずはその言葉を「説」を感じるくらいまで繰り返す必要がある。
格闘した記録(疑義)
自分ごとで考えたら、次はこの一節にとことん疑問をぶつけていきます。
この疑問のたねが、芽を出して、いずれは実をつけてくれることを願って-。
どのようなアプローチでどの程度までなのか?
これを達成するためには具体的にどういった過程が必要なのだろう?
今やっている方法は正しい方向なのか?
また、常にその一節を意識するなら、
一生一節であれは可能だが、論語一冊にしても500以上の節から成る。
この場合、一つ一つを深いレベルで「時習之」することはできるのか?
このとき自分が聖賢になるとは言ってないのだから、凡人として「如诵己言」で
いいはず。
しかし、具体的にはどのような状態をいうのか?
完全に教えを体得するのは一生かかりそうな気もする。
朱熹はどの程度の達成を言っているのか?
論語一冊にしぼったとしても一生涯で500節を「如诵己言」の境地までもっていくには
一体どのようなアプローチをかけていくべきなのだろう。
まずは今のペースを定着させて継続させることを優先していこう。
今日の一歩
論語の言葉を勉強していく時に「口誦心得,如誦己言。」をしっかり意識していきます。
自分の血肉にして、ただの解説で終わらないようにしていきたい。
編集後記
今日は朝6時にこの言葉と格闘しました。
やはり朝早いと集中できるものです。
格闘が終わり、熱い甘酒を飲んで温まったら、
また寝てしまいましたが、充実感がありました。
