『論語』の冒頭にある「學而時習之」「有朋自遠方來」に続く、
最後の言葉「人不知而不慍、不亦君子乎?」は、
僕たち現代人が直面する「承認欲求」や「他者評価」という悩みに力強い答えを与えてくれます。
自分の努力が認められない時、成果が理解されない時、つい不満を抱き、心を乱してしまいがちです。
しかし、孔子はこの「慍(いかり)」を持たないことこそ、徳のある人格者「君子」の証であると説きました。
本記事では、この言葉の核心的な意味を原文から読み解き、さらに朱熹や程子といった大儒たちがこの句をどのように解釈し、「學」のプロセスと「君子の道」をどのように結びつけたのかを解説します。
「學而時習之」を続けることで到達できる、心の揺るぎない平安とは何か―。
その道のりを探りましょう。
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論語「人不知而不慍」の書き下し文と現代語訳
人不知而不慍,不亦君子乎?
rén bù zhī ér bú yùn,bú yì jūn zǐ hū?
(簡体字:人不知而不愠,不亦君子乎?)
書き下し文:「人知らずして慍みず、亦君子ならずや。」
意味:人が理解してくれなくても、不平を言ったり、腹を立てたりしない者こそが、徳のある人格者と言える。
【原文解説】評価軸を自分に戻す: 「人不知而不慍」が教える自己肯定感の築き方
「不知」:人が自分を理解してくれないこと
「而:ér」ここでの「而」は「逆接」です。
「人不知」しかし「不慍」ということですね。
「慍:yùn」:怒る、腹を立てる
「不亦~乎」は「なんと〜ではないか」という反語を表します。
「君子」:徳のある人格者。ある一定の精神的境地に達した人。これが儒家の学びの目標。
一番上というわけではなく、君子の上に賢人や聖人などさらなる段階がある。
「人不知而不慍」:外的な評価に左右されない「説」の境地
学びは己にあり、知るか知らざるかは人にあります。
自分の修養は自分次第であり、人がそれを認めないからと心が乱されるのであれば、学びが足りていないということです。
學而時習之,不亦說乎?の「說」は、心の中から湧き上がる喜びです。
誰にも奪われないですし、外からもたらされるもので変化しません。
「人不知」でも変化しなくて初めて本物の「說」を得たと言えるわけです。
朱熹が説く「君子の道」:「學・樂・慍」が示す人格完成のプロセス
学問を人に教えて「樂」を得るのは容易でも、人に評価されず、理解されなくて不満を持たない(人不知而不慍)というのは難しく、君子だけができる境地であると朱熹(zhū xī:南宋の儒学者)は言います。
朱熹は、人が道徳を成就し人格を完成させる道は、ただ正しい道(徳)を学び、それを繰り返し実践して熟練させ、その結果得られる内面的な喜びを深めていくという、
この努力を絶え間なく続けること(「然德之所以成。亦曰學之正,習之熟,説之深而不已焉耳。」の意)だけだと強調します。
と続いたわけですが、「樂」は内面的な充足である「說(悦)」の後に獲得するもので、
「樂」がなければ「君子」と称するに及ばないと程子(朱熹が先生として慕った人)は言います。
最終的な目標: 「學而時習之」で到達する心の平安
人があなたの努力や価値を理解するかどうかは、その人の学識や状況、気分といった、あなた自身ではコントロールできない要因にかかっています。
なので、自分の及ばない範囲に心を煩わせる必要はありません。
不患人之不己知,患不知人也。
bú huàn rén zhī bù jǐ zhī,huàn bù zhī rén yě。
「人が自分を理解してくれないことを心配するのではなく、自分が人を理解していないことを心配しなさい。」
とも孔子は言います。
また内面的な充足である「說(悦)」が絶えず続いているから、不平不満の感情も出てこないと蕅益法師(ǒu yì fǎ shī:明代仏教の高僧)は言います。
學而時習之を絶え間なく繰り返すことが、人不知而不慍を達成させて、君子になる道であるのです。
