この記事では、子夏が説いた『論語』「賢賢易色」の句を通じて、
「真の学問とは何か」という本質に迫ります。
孝・忠・信といった倫理的な実践こそが、知識の習得より重要であるという儒学の根本思想を解説。
さらに、この子夏の言葉に対する朱熹や呉澄らの学問観の論争を深掘りし、
「学習と実践の最適なバランス」を考察します。
現代にも通じる、人生を豊かにする「学び」の真髄を、本記事で見出してください。
論語「賢賢易色」の書き下し文と現代語訳
子夏曰:「賢賢易色;事父母能竭其力;事君能致其身;與朋友交,言而有信。雖曰未學,吾必謂之學矣。」
Zǐ xià yuē: “Xián xián yì sè; shì fù mǔ néng jié qí lì ; shì jūn néng zhì qí shēn ; yǔ péng yǒu jiāo, yán ér yǒu xìn, suī yuē wèi xué, wú bì wèi zhī xué yǐ.”
(簡体字:子夏曰:「贤贤易色;事父母能竭其力;事君能致其身;与朋友交,言而有信。虽曰未学,吾必谓之学矣。」)
書き下し文:
子夏曰く、「賢を賢として色に易え、父母に事えて能く其の力を竭くし、君に事えて能く其の身を致し、朋友と交わるに、言いて信あらば、未だ学ばずと曰うと雖も、吾は必ず之を学びたりと言わん。」
意味:
子夏は言う。
「(孔子の教えである)『賢者(徳のある人)を優れているとして、それを尊び、情欲を好む心を善を好む誠実な心へと変化させる。
父母に仕える時は、力の限りを尽くし、君主には命をかけて奉仕する。』
これらが実践できている者は、誰かが「彼はまだ学問を修めたと言えない」と言ったとしても、私は彼を学を修めた人間として評価する。
【原文解説】子夏が説く「賢賢易色」の現代語訳と教訓:仕事と人生に活かす実践倫理
子夏は孔子の弟子で、本名:卜商,字が子夏。
賢賢易色
「賢:xián」才能と徳が人より抜きん出ている人
「賢賢」と二つ並ぶ時、前の一つは動詞の役割を持ち、
この場合、「賢者(徳のある人)を優れているとして、それを尊び」となります。
「〜と思う」というニュアンスが付け加わり、
「賢」から派生した「尊ぶ」という動詞的な意味になります。(意動用法という)
「易:yì」は「変える」(「交換する」という意味から派生)
「色:sè」:情欲、色欲。
他に、仏教用語では「目に見える物、形があり触れることができるもの」を指す。
賢賢易色の解釈はいくつかあります。
賢者(徳のある人)を優れているとして、それを尊び、情欲を好む心を善を好む誠実な心へと変化させる。-朱熹
情欲を好むように、賢という特出した徳を好むのが善である。-孔安國
賢者を尊重し、その徳を見習うという行為を通じて、自分と他人を区別する執着を捨て去り、私欲(色)を根源から断つための修行である。ー蕅益法師
蕅益法師(明の高僧)は以下のように解釈します。
「賢賢」→賢者を尊び、それを自分のことのように喜ぶ。
(自分と他者を区別する分別心がない状態→自他不二という)
「易色」→自他不二の境地では、他人の成功が自分の成功と同じであるため、嫉妬や奪いたいという私欲の根拠が消滅
(欲望の対象を変えるのではなく、欲望を生み出す根源(分別・我執)を消滅させるということ)
事父母能竭其力,
「事:shì」は「仕える、世話をする」
「竭:jié」は、もともとは「枯渇する」という意味でそこから派生して「使い果たす、尽くす」という意味になりました。
「能:néng」は現代中国語と同じ意味で「〜できる」を表します。
>【HSK1級】“能”
父母に仕える時は、力の限りを尽くす。
事君能致其身,
「君:jūn」は「君主、国を統治する人」。「君子」の「君」ではないので注意。
「致:zhì」は「委ねる、捧げる」と言う意味で、単に「力を尽くす、一生懸命働く」というレベルを超えています。
「忠」の倫理を究極的に表現しており、自己犠牲を伴うほど全力を尽くすという極めて強い献身の態度を示しています。
君主には命をかけて奉仕する。
與朋友交,言而有信,
口にしたこと、約束したことを必ず守り、友人の信頼を裏切らないことが、真の人間的成長(学び)の証であると孔子は教えているのです。
友と交流するときは、言葉に嘘がなく、信用を守るようにする。
雖曰未學,吾必謂之學矣。
「雖:suī」は「〜としても」という仮定的な逆接を表し、現代中国語の「虽然」と同じです。
「曰:yuē」は「言う、述べる」で、「子曰〜」の形でよく登場しますね。
「未:wèi」は「まだ〜していない」という意味で、動作や状態がまだ実現していないことを示します。
「吾:wú」は「私」で、第一人称を指します。
ちなみに中国語の古文で第一人称「私」を指すのは以下のようなものがあります。
我,吾,予,朕,余,卬,台,身,甫,言
「必:bì」は「きっと、絶対」のように肯定を強調する役割があります。
「謂:wèi」はここでは「人物を評論する」という意味で使われます。
「之:zhī」はここでは「彼」を指します。
(現代中国語での「他,她,它」は古文では「之」)
「矣:yǐ」は完了したこと、すでに終わったことを示す語気助詞で、
現代中国語の「了」の機能の一部に相当します。
他の人が彼はまだ学問を修めていないと言ったとしても、私は彼を学を修めた人間として評価する。
【論語の本質論争】子夏vs呉澄:実践と学習、真の学問のバランスを問う
学問の真の目的は、書物を読むことではなく、
日常における倫理の実践であると朱熹は断言しています。
子夏は古典文献の理解や注釈(解説を書くこと)の専門家でした。
当時は「文学」と呼びます。
自分の専門分野(書物)ではなく、実践の優位性を認めているわけです。
①賢賢易色
②事父母能竭其力
③事君能致其身
④與朋友交,言而有信
またこの4つは、人間関係における最も重要な規範であり、
これが実践できるのは生まれつきでなければ、真剣な努力によってその境地に達したことになると言います。
よって孔子は「吾必謂之學矣」(私はその人を学を修めた人間として評価する)と言っているわけですね。
※現代のテキストでは子夏の発言全体とされますが、「吾」の重みから孔子の言葉の引用、または孔子の真意と解釈されます。
一方で呉澄という元代の儒学者は、学問(學而時習之)もまた必要で、実践と学習のバランスを取る必要があると言っています。
形式的な読書や学習の重要性を軽視する風潮を生み出す危険性があると警告しているわけです。
知識だけでは傲慢に、行動だけでは独断に
実行と学習はどちらか一方ではいけません。
『弟子規』ではこの点も強調されています。
不力行 但學文
長浮華 成何人
Bù lì xíng, dàn xué wén,
zhǎng fú huá, chéng hé rén.
「無理してでも実行することなく、ただ学問ばかりしていいるだけでは、傲慢さだけが育つ。これでは一体どんな人間になるというのか?」
蔡禮旭(cài lǐ xù)先生が幼稚園に『弟子規』の出張授業をしに行ったら、
子供たちは「これもうやったよ!」「僕は暗記したよ!」「私も全部言える!」と得意気でした。
ただの座学が傲慢さを生んだわけですね。
但力行 不學文
任己見 昧理真
Dàn lì xíng, bù xué wén,
rèn jǐ jiàn, mèi lǐ zhēn.
「ただ実践するだけで、学ばなければ、自分の独断に陥ってしまい、真理を見失う。」
学ぶことが欠けていたら、それはそれで自分の独断と偏見で判断してしまうリスクがあります。
真の学習とは、謙虚な態度で学び(文)、それを絶えず実生活で実行する(行)という両輪を回し続けることなのです。
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