「一生懸命やっているのに、結果が伴わない……」
そんな焦りを感じる時こそ、2500年前の知恵『論語』が効きます。
本記事では、「君子務本, 本立而道生(君子は根本に務む、本立ちて道生ず)」という言葉を軸に、
目先の速さではなく「一生モノの土台」を築く考え方を解説します。
朱熹の教えや語学学習への応用を通じ、
最短で結果を出すための「根の張り方」を学びましょう。
論語「君子務本,本立而道生」の書き下し文と現代語訳
君子務本,本立而道生
Jūn zǐ wù běn, běn lì ér dào shēng
(簡体字君子务本,本立而道生)
書き下し文:
「君子は本を務む。本立ちて道生ず。」
意味:
徳のある人格者(君子)は、目先の成功ではなく、 物事の基礎となる根本的な修養に専念する。
その心の土台(根本)がしっかりと確立されれば、 人としての正しい生き方や、社会的な影響力は自然と生まれてくる。
「君子務本, 本立而道生」の真意を解説:人徳を完成させる【根本原理】
君子務本
「君子:jūn zǐ」は徳を高い水準で身につけた人徳者でしたね。
「務:wù」:集中してそれをやる、労力を一点に集中させる
「本:běn」:根本、基礎
根のようなもので、大地に張り、水や栄養を吸収し、全体を支えるものです。
物事の根本原理(本)を学んでいれば、複雑な状況でも正しい判断ができるようになり、
人不知而不慍(人に理解されずとも、腹を立てない)という心の独立が達成され、
揺るぎない精神的な土台が築かれるのです。
徳のある人格者(君子)は、目先の成功ではなく、 物事の基礎となる根本的な修養に専念する。
本立而道生
「立:lì」は、一般的に抽象的な良いことができ上げっていく、完成されていくことを表します。
「本立」は根っこが張ったと解釈できます。
土台ができたら「道生」道が生まれるということです。
「道」は枝葉と解釈できます。
目に見える結果として、人格が完成し、
社会的な成功や影響力(君子としての活動)が自然に生み出されるのです。
そして有朋自遠方來のように志を同じにする人が集まってきます。
土台さえしっかり築けば、
結果は自ずと後からついてくるのです。
その心の土台(根本)がしっかりと確立されれば、 人としての正しい生き方や、社会的な影響力は自然と生まれてくる。
草刈り兵士の例から学ぶ「君子務本」の読書法
宋の儒学者の朱熹はこんな話を引用しました。
兵士たちが草刈りをしているのを見て、
先生は生徒に問います。
「誰が一番早いか?」
生徒は「皆同じように早いと思う。」と答えます。
さらに「でも、あの一人の兵だけは遅い。」と付け加えました。
先生は首を横に振ります。
「早く見える兵士たちは、草刈りを早く終わらせることを考えて、見えるところを刈っている。
しかし、あの遅く見える兵士は、ひとつずつ根から刈っている。
これでは、時間が経ったら、早く見える兵士たちはまた同じことを繰り返さなければならないが、遅く見える兵士は、一回だけの作業で完了できる。」
朱熹は、この例で読書のあり方を指摘しました。
先に先に進もうと活字ばかり追っていても、自分の身にならないと言っています。
「君子務本」にもあるように、根本から対処していかなければ徒労に終わってしまうということですね。
急がば根を張れ!一生モノの道を作る「君子務本」の教え
「本:běn」を築くことは一見遠回りに見えます。
しかし、これが一生物のルート(道)を作ってくれるのです。
草刈りの兵士も、根っこから処理すると進度は遅くなります。
中国語の勉強でも根を成長させると、
一見立ち止まったままで、進歩がないように思えます。
>>中国語学習が進んでも「使えない」あなたへ ― 本当に必要なのは「深さ」の勉強法
目の前の早さだけにとらわれて満足していると、長期で見るとただの徒労で終わることが少なくありません。
魏の時代の解説書では、
「本」は「基礎」のことで、
「基礎が築かれることで大きなことを成し遂げられる」とあります。
仕事でも勉強でも、表面上の動きに惑わされず、
根本に集中(務本)していきたいものですね。
思考格闘の記録(ノートも公開)
「君子務本, 本立而道生」の格闘記録ノートです。
前回に続き、2回目の格闘だったので肩の力を抜いてできたと思います。
一日目:自分ごとで考える(切己体察)
今日は朝10時頃に初めて、途中、愛犬cocoの散歩と歯医者に行ったので中断がありました。
途中で中断するのはためらわれたのですが、cocoの散歩中も思考は続いていました。中断するのもいいのかもしれないですね!

もっと早く知っていたら…
以前は、いろいろなことを知っている、できるということが優れていると思っていた。この言葉を当時から知っていて、感銘を受けていたら、今まで浪費してきた時間も減らせたと思う。
知識が多ければ多いほどいいと思っていた当時は、いろいろな本を読んだり、勉強したりして、今思えば時間をムダにしていたと思う。
まさか古典は一生かけて勉強していくものだとは思ってもいなかった。テキパキとこなしていくことが良しとされてきたから、じっくり時間をかけるという概念すらなかった。
当時この道理を知っていたら、早くから中国語の勉強を始めていたかもしれない。
しかし、後悔しても意味がない。この先、道に迷わないように気をつけて行こう。
日本語ネイティブであることの使命
自分が中国語ネイティブだったら、古典の習得ももっと早いのではと思ったりしたが、日本語ネイティブであるからこそ、日本語で発信できるということかもしれない。
自分の根基や素養では、古典を勉強しても大した成就は見込めない。時代を遡るほど、当時の知識人の素養、根基、そして、精神的な汚染の程度が今と比較できないことが明らかになる。
自分では大きな成就はできないが、体得したことを配信していけば誰かのためになるかもしれない。「成人之美」と言えるか?
二日目:「信じるため」の疑い(疑義)

「本」は本当に「基礎・基盤」の意味か?
注釈では「本」を「根っこ、基礎・基盤」と解釈しているものがあったが、それなら「其爲人也孝弟,而好犯上者,鮮矣;不好犯上,而好作亂者,未之有也!」と「孝弟也者,其爲仁之本歟?」の間にあるのは不自然じゃないか?
それなら、どうして独立させなかったのか?
この文脈の中にあるということは「本」は「孝弟」と考えるのが普通ではないか?しかし、どの注釈書も「根っこ、基礎・基盤」としている。比喩ということか?
「道」は「道徳」のことじゃないのか?
「道」も「路」として解釈されている。しかし、「人道、道徳」としての「道」ではないのか?
「本立而道生」の「生」という字の語源を調べてみると、「草の芽が土を破って生長する様子」とある。それなら「道生」は「道」(仁)の目が出ると解釈しても良さそう。
今日の一歩
疑問はあるものの「本」を「根っこ」と解釈した方がしっくりきました。
なので、今日は、自分の「本」、何に労力を投下していくべきなのかをじっくり考えたいと思います。
編集後記
一文を考えることに慣れてきたのか、寝る時や愛犬cocoと散歩している時に、ふとこの一文が出てきました。
暗記しようと思っていなくても、やはり何度も考えたものを自然と覚えますね。そして、ふと出てくる段階まで、頭に焼きつくようです。
ただ解説を読んだだけでは得られなかった体験にワクワクしています!
