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【論語:有子曰く】 なぜ「親孝行」が社会秩序と「仁」の根本なのか? 〜君子務本に学ぶ、揺るぎない心の土台〜

論語「有子曰く」解説図:孝弟(親と子の手)が根となり、仁の木を支える様子。君子務本に基づき、社会秩序と仁の根本を表現。

『論語』の冒頭、有子(孔子の弟子)の言葉「其爲人也孝弟…」は、
僕たちの心の安定と人生の土台について説いた極めて重要な教えです。

この記事では、「親孝行(孝弟)」こそが、社会の乱れ(作乱)を防ぎ、最高の徳である「仁」を達成するための唯一の「根本(本)」であるという論理を、原文から徹底解説します。

朱子学の解釈も交えながら、「君子務本」の原理と、家族への愛を万物への愛へと無限に拡張していく「仁」の実践プロセスを探ります。

この深い学びを通じて、揺るぎない心の土台を築く鍵を見つけましょう。

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「孝弟」が君子の土台:「其爲人也孝弟」を原文で読み解く

有子曰:「其爲人也孝弟,而好犯上者,鮮矣;不好犯上,而好作亂者,未之有也!君子務本,本立而道生;孝弟也者,其爲仁之本歟?」

Yǒu zǐ yuē: 「Qí wéi rén yě xiào tì, ér hào fàn shàng zhě, xiǎn yǐ; bù hào fàn shàng, ér hào zuò luàn zhě, wèi zhī yǒu yě! Jūn zǐ wù běn, běn lì ér dào shēng; xiào tì yě zhě, qí wéi rén zhī běn yú?」

(簡体字:有子曰:「其为人也孝弟,而好犯上者,鲜矣;不好犯上,而好作乱者,未之有也!君子务本,本立而道生;孝弟也者,其为仁之本欤?」)

書き下し文:
有子曰ゆうしいわく、「の人とりや孝弟こうていにして、かみおかすことを好む者は、すくなし。上を犯すことを好まずして、乱をすことを好む者は、いま之有これあらざるなり。君子はもとつとむ。本立ちて道しょうず。孝弟なる者は、其れじんを為すの本か。」

意味:
(孔子の弟子)有子が言う。
親孝行で目上にも従順なのに、秩序を乱す傾向がある者は少ない。目上に逆らうことがない者で、秩序を乱すものは未だかつていない。
徳のある人格者(君子)は、目先の成功ではなく、 物事の基礎となる根本的な修養に専念する。
その心の土台(根本)がしっかりと確立されれば、 人としての正しい生き方や、社会的な影響力は自然と生まれてくる。
孝と悌こそが、まさしく仁という徳を実践するための根本なのではないだろうか。

補足:有子は孔子の弟子。本名「有若yǒu ruò

※読み方注意!
」は“dì”ではなく“”と読みます。
(年長者への従順・敬愛を指す動詞で「」と同じ)

」は“hǎo”ではなく“hào”と読みます。
(「好む」という動詞で、“好学hàoxu锓好色hàosè”など現代でも使われる)

仁・孝弟・務本のトライアングル: 最高の徳を実践するための論理構造

其爲人也孝弟,而好犯上者,鮮矣;不好犯上,而好作亂者,未之有也!

※「」は「〜ために」という意味では“wèi”, 
「実行する」という意味では“wéi”と発音します。

両親に善をもって尽くすのが「」で、親以外の目上に対するそれを「」といいます。

犯上」は「目上に逆らう」という意味で、「〜を好む」という動詞“hào”がついた「好犯上」は「目上に逆らう傾向がある、よく目上に逆らう」といったニュアンスです。

作乱」は秩序を乱すことで、これにより道理に背く反逆的な行為や闘争を招くとされます。殺人などの犯罪行為も含まれます。

「未之有也」は強い否定で「過去にそのような前例がない」ことを言うわけですね。

まとめると

親孝行で目上にも従順なのに、秩序を乱す傾向がある者は少ない(「鮮」は少ないという意味)、目上に逆らうことがない者で、秩序を乱すものは未だかつていない。

となるわけです。

君子務本,本立而道生

「君子」は徳を高い水準で身につけた人徳者でしたね。

」は集中してそれをやることを言います。労力を一点に集中させることです。
」は根のようなもので、大地に張り、水や栄養を吸収し、全体を支えるものです。

物事の根本原理(本)を学んでいれば、複雑な状況でも正しい判断ができるようになり、
人不知而不慍(人に理解されずとも、腹を立てない)という心の独立が達成され、
揺るぎない精神的な土台が築かれるのです。

本立」は根っこが張ったらと解釈できます。
土台ができたら「道生」道が生まれるということです。

」は枝葉と解釈できます。
目に見える結果として、人格が完成し、社会的な成功や影響力(君子としての活動)が自然に生み出されるのです。

そして有朋自遠方來のように志を同じにする人が集まってきます。

土台さえしっかり築けば、結果は自ずと後からついてくるのですね。

徳のある人格者(君子)は、目先の成功ではなく、 物事の基礎となる根本的な修養に専念する。
その心の土台(根本)がしっかりと確立されれば、 人としての正しい生き方や、社会的な影響力は自然と生まれてくる。

ということですね。

孝弟也者,其爲仁之本歟?

」は、人が生まれながらに持っている、他者を愛し、万物を慈しむ心の根っこ(原理)だと朱熹は定義します。
すべての人の心に内在する最高の徳性です。

爲仁」は「仁を行う」ことを言い、その根本が「孝弟」(親孝行と目上を敬うこと)だと言います。

」は中国語の古文で多様され、主に主語の提示「〜は」という意味で使われることが多いです。
現代中国語の“~是”と同じですね。

」は疑問詞で、直接の断定を避け、問いかけのニュアンスを付け加えます。

孝と悌こそが、まさしく仁という徳を実践するための根本なのではないだろうか。

「服を着た獣」と「孝の倫理」: 親の過ちを正し、憎まれても尽くす子の務め

作乱」(秩序を乱す反逆的な行為)のもとは、
好犯上」(目上に逆らう傾向)で、

この原因は「孝弟」(親孝行と目上を敬うこと)でないこと。

そしてそれは獣でいることと同じだと蕅益法師(ǒu yì fǎ shī:明代仏教の高僧)は言います。

服を着た獣でいないためには、「孝弟」が必要なのです。

殺人を犯したり、犯罪を犯すのももとを辿れば親への敬いがないということになります。

しかし、親が必ずしも正しいとは言っていません。

弟子規ていしき』にはこうあります。

親有過 諫使更 怡吾色 柔吾聲
諫不入 悅復諫 號泣隨 撻無怨

qīn yǒu guò jiàn shǐ gēng, yí wú sè róu wú shēng
jiàn bù rù yuè fù jiàn,háo qì suí tà wú yuàn

「親が間違っていればやわらかい表情と声で親の過ちを改めさせなさい。それでも聞き入れてくれなければ、親の機嫌がいい時に改めて諌めなさい。それでもダメなら号泣してでも付き従い、叩かれたりしても恨んではならない。」

親愛我 孝何難 親憎我 孝方賢
qīn ài wǒ xiào hé nán,qīn zēng wǒ xiào fāng xián

「親に愛されているのなら、親孝行の何が難しいことがあるだろうか。親に憎まれているのなら、上手に親孝行せよ。」

またこんな話もあります。

孔子の弟子が言います。
「父に木の棒で叩かれましたが、抵抗せず、ずっと我慢していました。これは親孝行でしょうか。」
孔子は首を横に振ります。
「お前が死んだらどうする?お父様は子殺しだと後ろ指をさされるだろう。気分も悪くなるだろう。」

不道徳な親も多いです。
しかし、それでも子として、上手に振る舞う必要があるのです。

「仁」を極めるには何から始める? 最高の徳の入り口はこれ

『或問』という注釈にはこう書かれています。

孝弟」が「」のもとなのなら、「孝弟」によって「」に至ることができるか?-できない。

孝弟」は「」の一種であり、「行仁」(仁を行う)の始まりである。
孝弟」は「」の本ではなく、「行仁」の本である。

」は「」がもとになっていて、「」は「親愛」(親に対する愛)を超えることはないと言います。
なので、親孝行であることが「」の基本となるわけです。

儒教における最高の徳である「」は、単なる概念ではなく、実践の過程を通じて完成します。その過程は、家族への愛(孝弟)を不動の土台として始まり、以下のように無限に拡大していきます。

  1. 起点:最も身近で根源的な親への愛(孝)
  2. 拡張:その愛を兄・目上(悌)、そして隣人へと広げる。
  3. 完成:最終的に、国家、そして天下のすべての人々や生きとし生ける万物へと普遍的に及ぶ最高の愛となる。

この無限に拡大していく愛の原理こそが「」であり、「愛之理」と呼ばれる人間に内在する根源的な善の力であると定義されるのです。

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