こんにちはちゃいなサプリの運営者Yuki(@YukiHiroi)です。
大学をドロップアウトし、最終学歴が高卒なのに、中国語を勉強して人生が変わったのですが、日本で仕事が見つからなかった話や国際結婚した話などくわしく赤裸々に語りましょう。
誰かの参考になればと思いこのページを追加しました。
ということで参考にしてみてね!
妻が中国人で、ミニチュア・シュナウザーの♀(名前はココ)と一緒に中国の浙江省寧波(ニンポー)というところで暮らしています。
どんな街かはこの記事を参考にしてみてくださいね。
≫中国の省一覧〜ピンイン・地図・動画つき!これで中国の地理をマスターしよう!
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この他に書籍を何冊か出版しています。くわしくはAmazonの著者ページに来ていただけるとうれしいです。
わたしもこうやって記事内に登場してるよ!
ちなみに、ミニチュア・シュナウザーって種類は中国語では雪纳瑞:xuě nà ruìって言うんだ。
ボク自身もこうやって登場してるよ!
これは北京でサソリを食べてるときの写真なんだ(笑)
中国語を勉強してから人生が変わりました。
もうすこしくわしくご紹介します。
ジャッキー・チェンに会いたい
3歳くらいにジャッキー・チェンの『レッド・ブロンクス』という映画を観てから、ジャッキー・チェンの大ファンとなり、いつかは会ってみたいと思うようになりました。
不思議なものでずっと願っていれば夢は叶うものですね。
ボクはこのあと本当にジャッキー・チェンに会うことになるのです。
きっかけは台湾人との出会い
生まれは東京の浅草のあたりですが、中学からは千葉の学校(東邦大東邦というとこ)に6年通うことになります。
なので、東京よりも千葉の方がくわしいかもです。
と言っても、津田沼とか船橋以外とくに知りませんが…。
ちゃんと受験生をやっていたわけですが、ジャッキー・チェンへのあこがれは消えず、そして海外に出たいという欲求が日に日に増してくるのです。
TVでは東大王が流行っていました。「東大入ればテレビに出られるのか?」
アメリカに留学した幼なじみ
小学校のクラスメートがアメリカに留学して、一時帰国しました。そのときに、台湾人の友達4人と一緒に帰ってきて、さそってくれました。
「英語話せないけど大丈夫なの?」
「ノリでなんとかなるから。」ということで参加しました。英会話本みたいなものを持って。
4人の女の子たちだったのですが、ボクにわかるようにゆっくり話してくれました。不思議なもので、相手もこちらのたどたどしい英語をわかってくれて、本当にノリでなんとかなったのです。
これがボクには大きな衝撃でした!
「外国人と英語で話せたぞ。」と自信につながったのです。
そのあとその幼なじみの当時の彼氏の中国人のクリスとスカイプで話しました。
耳で覚えたジャッキー・チェンの主題歌がすこし通じたようで、クリスはよろこんでいました。
この2つの経験がボクの世界観を変えました。
同時に、受験勉強を一生懸命やっているのにほとんど話せやしないということに虚無感を覚えました。
(時間をムダにした…と)
結局、東大には合格できず、ほかの大学にも行きたいと思えず、アメリカに行くことにしました。
台湾→アメリカ→そして中国
台湾へひとり旅
それまで海外には出たことがありませんでした。なので、アメリカに行く前に予行練習をしたいと思い、塾でアルバイトをして資金を貯めて、台湾にひとり旅に出ました。
当時は中国語もわかりませんし、カタコトの英語ができるくらいでしたが、みんな優しくしてくれました。
しかし、ふしぎとみんなに優しくされるとひとりぼっちの自分を強く感じ、すごく孤独におそわれたのをおぼえています。
アメリカで出会った「外国人たち」
アメリカではケンタッキー州にあるCampbellsville Universityというところに行きました。ノー試験で留学会社にうん十万払えば行けるところでした。
(あとで大学の先生が言うことには直接連絡すればそんなお金払わずとも入学できたとのこと…。クソッ!留学エージェントめ!)
TOEFLで80点とれば直接学部に入れるということだったのですが、当時は60数点しかとれなかったのでESLという英語のコースを間にはさまなければならなくなりました。
学部の授業では心理学をとって、メジャーで演劇をやりたいと思っていました。
(ジャッキー・チェンに会うために俳優になりたかったのです。)
現実はそう甘くないもので、学部の授業では留学生もいなく、最初のころは教授が言っていることもあまり理解できずにいました。
グループセッションなんかではボクとグループになったアメリカ人たちはマジかぁみたいな顔をしていると思ったり、ちょっと自己嫌悪に陥っていました。
そう考えたら、演劇なんかとてもじゃないができない。と思った(気づいた?)上に、次の学期の奨学金はとれなくなってしまいました。
そうなるとべらぼーな学費になってしまうし、もうやる気もなくなってるし…ということでドロップアウトすることにします。
親はもう半ばあきらめていたようでした。幸い弟が慶応ボーイとしてまじめにやっていたのが救いでしょうか。
ロバートじいちゃん〜天国より
ボク自身はクリスチャンというわけではないのですが、大学の教会には毎週日曜日に行って無料のドーナツを食べていました(笑)
なぜか神父のロバートさんがボクに近寄ってきて「きみには愛がある」と。
「変な人なのかな」という第一印象でしたが、それから親交がはじまりかわいがってもらいました。
ボクがアメリカを離れると知ると、学費の一部なら出してあげられるとまで言ってくれました。
ボクが日本にいても中国にいても手紙のやりとりはしました。
しかし、だんだん返信を書くのが面倒になっていき、長いこと書かずにいました。
中国にいたある日、夢でロバートさんが出てきたのです。Facebookでロバートさんと仲良かった人に連絡したところ、今はベッドの上にいて、もう長くないとのこと。
ベッドの上で「Yukiから手紙はきたか?」と言ってたといいます。もう7年ちかく連絡してなかったのにまだ気にかけていてくれたのです。
チャットで話しているその間にロバートさんは旅立たれました。
ロバートさんは本を読まないことは食事をしないのと同じというくらいの読書家でした。
ボクが書いたものを読むのも好んでくれて、いろいろ書いてはロバートさんに見せました。
そのうちのひとつが大学で選ばれて出版されました。
手紙も面倒くさくなって書かなくなってしまった自分を恨めしく思うこともいまだにあります。
311東日本大震災
大学をやめる理由のもうひとつの理由は東日本大震災です。
当時、アメリカにいて、東日本大震災が起きたことを夜中にブラジル人のともだちが知らせに来てくれたのです。
ニュースでは津波が強調されて、まるで東京が飲み込まれたような感じの報道で、急いで国際電話しました。(当時はLINEもなかったし、日本ではFacebookを使ってる人はかなりの少数派だった。)
しかし、国は海外からの電話網を遮断して国内の連絡網を優先させていたのです。
東京にいる家族はもうダメだと思いました。そのときは涙が出るのではなく、なぜか嘔吐しました。
その後、地元のともだちがmixiで無事を報告していたのを見て、安心したわけですが、心理的に受けたショックは大きかったようです。
それ以来、物理的にとおく離れたアメリカにいるのがいやになっていきました。
中国人のともだちが開いてくれた道
ボクが退学するということを知った中国人のともだちがこう提案してくれました。
中国にある演劇学校に行ってはどうかと。ジャッキー・チェンに会いたいんだったら中国で挑戦した方がいいよと。
北京にある有名な映画関連の学校は
北京電影学院(北京电影学院:běi jīng diàn yǐng xué yuàn)と
中央戯劇学院(中央戏剧学院:zhōng yāng xì jù xué yuàn) という2校です。
そこにメールを中国語で送ってくれたのです。北京電影学院の方が返信がはやく、中央戯劇学院は数日後にやっと返信してきたので、北京電影学院に行くことにしました。
最初は中国語クラスに入って、そのあと受験しろとのことでした。
はじめての中国は朝鮮族の町
アメリカにいたときの中国人の留学生たちとは集団でごはんをたべたり、遊んだり仲がよかったです。
ボクが北京に行くということを聞いて、みんながミーティングのようなものを開き、真剣に考えてくれました。
「Yukiは日本人だし、中国でいじめられやしないか?」
「このままアメリカに残った方がいい。」というのが結論でした。
でも、行ってみなければわからないし、みんなは中国人なのに仲良くしてくれてるじゃないかということで旅行してみることにしました。
ルームメイトのスンビンは朝鮮族という少数民族で、韓国語と中国語が母国語だといいます。いろいろ話を聞いて興味深く、彼の地元に行くことにしました。
中国の東北部にある吉林省延吉市というところです。彼はアメリカにいますが、地元のともだちに連絡して、ボクに紹介してくれました。
現地で困ったときにはスンビンに国際電話をかけて通訳してもらったり、彼のともだちがサポートしてくれたり、アメリカで知り合った韓国人留学生のお母さんがこの地で教師をしていることから、助けてくれたり、日本人だからと住む場所が見つからなかったときに住まわせてくれたり…。
1ヶ月の滞在でしたが、まるで奇跡のような体験ばかりでした。
はなすと長くなってしまいますので、この体験談は以下のルポにまかせます。
中国で俳優に?
中国では北京電影学院(北京电影学院:běi jīng diàn yǐng xué yuàn)という演劇の学校に留学しました。
中国語はなぜだか上達がはやく、あっという間にちょっとしたコミュニケーションならとれるようになりました。
くわしい方法は以下の記事にゆずりますが、これはひとつ大きな自信につながりました。
≫【初心者からビジネスレベルまで】中国語学習ロードマップ
中国語が下手であるにもかかわらず中国語コンテストみたいな番組に出て、テキトーな酔拳を披露したり、歌ったりして、特別賞をもらったり、作文コンテストでは200前後の単語しか使っていないのに賞をもらいました。
しかし、順風満帆にはいかないものです。
演劇科の受験では3回の演劇のテストがありました。当時、ボクはまだ中国に来て半年くらいでしたから中国語を話して演技するわけにはいきません。
そこでどうしたかと言うと、喋れない人や頭のおかしい人を演じたのです。結局、不合格でしたが、注目はされて、その後CMやらショートムービーやら雑誌やらに起用してもらえました。
ドラマ出演
露出が増えるようになると目をつけてくれるプロダクションが現れるようになりました。
ちょうど抗日もののドラマで日本人が必要で、16歳の少年の役で、ちょうどボクを指名してくれたのです。
大学に探しに来たようですが、そのときはちょうど日本で撮影していました。
(日中合作の映画だったのですが、尖閣諸島の問題で結局途中で中止に。)
そう簡単にみつからないという印象がよかったのか、ボクのギャラが上がったようです。
抗日ものには出たくなかったし、今までも出たことがありませんでした。
しかし、その役が、戦争で人をころすことができない少年であることと、監督がジャッキー・チェンの映画『1911』を撮影した人だということ、さらにギャラが当時のレートで数百万円あったことが大きかったです。
実際にはかなりマージンを取られていたのですが、数百万円というお金なんかもらったことなかったし、ドラマに出れば有名になれる!という期待で出演しました。
そのときの様子が動画にあるので興味のある人は見てもらえるとうれしいです。
撮影は北京・南京・上海でおこなわれて、上海で撮影していたときにジャッキー・チェンがCM撮影にやってくるという情報が入りました。
こちらも話すと長くなるので、動画版と書籍があるのでそちらにゆずります。
これを機に中国版のWikipediaである百度百科にもボクのページが載りました。
しかし、町を歩いていて話しかけられるということもなく、たった1度だけあったので、その人にはご飯をごちそうしました笑
四川大地震
ジャッキー・チェンに会ったとき、ちょうどその数日前に四川大地震があったのです。
彼はボクに「いまは四川大地震で大変なときだから、ぼくの笑顔の写真はよくない。落ち着くまでSNSとかにUPするのは待ってほしい。」と言いました。
これを聞いて高2のときを思い出しました。2008年に四川で大地震があり、学校で募金活動がおこなわれました。
そこでジャッキー・チェンのDVDを買うために貯めていたお小遣い2万円(全財産)を入れました。
みんなびっくりしていて、先生ですら入れすぎじゃないかと心配していましたね。
そのあとは結構、後悔しました。受験勉強の合間にジャッキー・チェンのDVDを観るのが唯一のたのしみだったし、ちょうど新作も発売するころでしたから…。
しかし、それから数年後、四川大地震が起きたころには本人に会えたわけです。
いいことをすれば本当に自分にいいことが返ってくるんだと信じることができるできごとでした。
プロダクションからオファー
撮影が終わって、監督の会社から契約をむすんで専属の俳優にならないかとのオファーをもらいます。ボクに将来性があるとかではなく、便利だからでしょうね。
中国語ができるので現場では通訳をつける必要がないのです。また、クレジットには出ませんでしたが、中国人外交官が英語を話すシーンでは、英語ができる役者がいなかったので、ボクが演じましたし、現場での日本語通訳と英語通訳、さらには台本の日本語翻訳もやりました。
その分のギャラはもらっていませんが、まぁこれが下積みかなと思うようにしました。
その契約の内容は20年。もし契約していたら、いまでも契約していることになります。
いいチャンスかと思いましたが、そのときにはもう気がついていることがありました。
中国で日本人にいい役はまわって来ないと。抗日がほとんどですし、撮影で知り合った日本人俳優の人からもいろいろと話は聞いていました。
それで、契約の話は断りました。
そのときに、心のなかではもう中国を離れようと決めていたのです。
ちなみにその事務所はその数年後に倒産しました。
夢の香港に移住
撮影で入ったお金の上手な使い方もわからず、それを持って香港に移住しました。
香港では北京で知り合った香港人や日本人の方がいろいろ助けてくれました。
やっと来たぞ!香港!
最初は香港を観光していました。住む場所もホテルは高かったので、チョンキンマンション(重庆大厦:zhòng qìng dà shà)というところに泊まりました。
ここは金城武の『恋する惑星』という映画のロケ地として有名になりました。
雑居ビルのなかにあり、スタッフはみなアフリカ出身の方たちで、入り口には中東の人たちがたむろしていて、ちょっとビビっていたのですが、住んていれば慣れるものですね。
部屋は20平米ないという感じでしたが、テレビがついていたので夜はずっとテレビを見ていました。広東語の番組は新鮮で、興味深かったです。
広東語を勉強するというのも目的にしていたので、日本で買った参考書も持参しました。
慣れてきたので、香港人のともだちに手伝ってもらい、賃貸に住むことに。しかし、香港の家賃は高く、中心地では20平米でも15〜20万円くらいしました。
それで、中心地から離れた大陸との境にある粉嶺というところに住むことにしました。
それでも20平米くらいで10万円ちかくしました。
順風満帆にはいかず…
香港を満喫したあとは撮影の仕事探しをはじめました。
まずはTVBという香港スターを数多く輩出した映画スタジオと契約できないか連絡したものの、香港人か香港永住権を持った人しか受け入れていないと言われてアウト。
ほかにも多くのエージェントに連絡しましたが、会って電話番号を交換しただけでそれから音沙汰なし。
4人くらいは、会う場所まで指定してきたにもかかわらず、すっぽかされて約束の時間になっても来ませんでした。
連絡しても返信なしという状態。
でも香港に住み続けたいという思いがあり、香港で就職することにしました。
いくつか面接に行って、英語や中国語のテストをしたりしたのですが、最後にビザを持っていないとわかると、すぐに却下される始末。
香港はビザの有無にきびしく、ビザがないと仕事をもらえませんでした。
ビザを取得しようにもボクの最終学歴は高卒ですから、条件に合わないのです。
(香港の就職ビザは4年制大学以上の学歴が必要。)
香港でニート生活
なにもできぬまま香港でニート生活を送る日々。
香港人のともだちはみな仕事をしていますから、なかなか会えず、ひとりで家にこもったり、ながいながい散歩をしたりしていました。
ひとりではどこに行っても孤独を感じ、数ヶ月するとほとんど家の周りを歩き回るか、家で広東語を勉強する日々を送っていました。
香港大学でいい参考書を見つけたので、ひたすらにらめっこです。
ビザなしでいられるのは3ヶ月ですから、一旦中国へ入国し、また戻って、3ヶ月の猶予期間をGETします。
香港の大学生にあこがれる
たまに地下鉄で遠出していたのですが、自然と足が向いたのは大学でした。香港城市大学というのが地下鉄で行けたので、校内を歩き回っていました。
それ以外の大学はちょっと遠かったので、よく行くのは香港城市大学でしたね。
大学生たちを見ていると自分は道を外れてしまったように感じました。仕事もできないし、ビザもとれない。
香港城市大学はTOEFLという英語の試験の点数を満たせば入れるということで、入学しようと思ったのですが、留学生の授業料は高く、払える見込みもないので、その希望は消え去りました。
さようなら香港、そして日本へ
香港に来て半年も経たないうちに資金が底をつきました。
日本に帰ります。
アルバイトを探します。中国語や英語を使った仕事をしようと決めましたが、そういった仕事はアルバイトであっても大卒が条件で、高卒のボクは足切りを喰らいます。
このときはかなり後悔しました。ちゃんと日本で大学に行っていればこんなことにならなかったのにと…。
日本映画出演?
日本でオーディションを受けて、『恋するヴァンパアイア』という映画に出させてもらえることになりました。小さい会社で、香港人の人もくるから通訳もお願いしたいと言われ、通訳や翻訳などいろいろやりました。
制作段階で、キャストなども台湾の有名な女優(『あの頃、君を追いかけた』のヒロイン)などの名前もあがっていて、これが俺の運命だ!日本に帰ってきて正解だった!と飛び上がりました。
あるときは森泉さんとその妹さんの森星さん、さらに森泉さんのおばあさんとも同席しました。通訳として呼ばれたのですが、みな英語がペラペラなので、出番はなかったです。
希望に燃えた日々は一瞬にして終わりました。
一本の電話が入り、「もう君の出番はなくなったから」と言われます。
それまでのギャラも払われず、その後は音信不通です。
この映画は公開されたらしく、よく見てみると制作もとも変更になったようです。
もちろん作品は見ていませんし、見たくもありません。
いま思い返しても腹が立ちます。
浅草キッドに
失望のなか、お金もありませんから、アルバイトしなくてはなりません。中国語や英語を使う仕事がいいなんてわがままは言ってられません。
それで地元浅草にある東洋館という劇場でバイトをすることにしました。
ビートたけしが若いときはここでバイトしていましたね。
結果、ここでの仕事はすごく楽しく、当時のスタッフの仲間とは今でも連絡しています。
お笑い芸人の方たちとも会え、ビートたけしの師匠と言われる鯨屋というお店の大将さんもよくしてくれました。
ナイツさんや壇蜜さんも見ることができました。ボクはただエレベーターを開けただけですが…。
以前からおもしろいと思っていた、柳家喬太郎さんにも会えました。柳家喬太郎さんは底辺スタッフであるボクにも深々と頭を下げてくれたのが印象的です。
立派な人は、人間も立派なんだと実感できたことを今でもおぼえています。
気持ちは海外に
中国で演劇を勉強する学生はスタニスラフスキーというロシアの演劇家の理論を教科書として使います。
それで、いっそのことロシアに留学するかなどと夢を見ていましたが、学費を稼ぐだけで数年かかりますし、現実的ではなく、この先どうしようか途方にくれていました。
そのときに思い出したのが、北京で知り合ったシンガポール人のともだちが「インドを旅して人生観が変わった」と言っていたことです。
「俺も人生を変えたい」そういう思いから、貯めたお金で、インドを放浪しようと決めました。
ネットで情報を調べ、2ヶ月放浪できるだけの資金を貯め、泣く泣く仲の良かったバイトの仲間たちに別れを告げ、いざインドに旅立ちます。
そして、そのときはインドでこんな悲惨な目に遭うとはつゆ知らず、希望に満ちあふれていたのです。
インドで軟禁される?
人生を変えるべくインドに向かいます。(結果、本当に人生が変わることになる。)
話すと長くなるので詳細は以下の書籍にゆずりますが、おおまかにまとめると、
インドの空港
↓
タクシー(これがやばいやつだった)
↓
郊外へ
↓
あやしい事務所
↓
逃げられず
↓
強制的にツアー組まされる
↓
8時間かけて田舎のホテル
↓
タクシー運ちゃんに賄賂
↓
空港
↓
日曜だからカウンター閉まってる
↓
台湾人の旅行者に助けられる
それで結局、インドでの滞在時間は2日だった…。
わけのわからぬツアーを組まされたせいで借金と払うことになる。
山形県で運命の出会い
東京にもどり、インドで人生観が変わったと言っていたシンガポールのともだちにインドでのことを話しました。
すると、「Yuki、世界を見たいなら、まずは自分の国を知ることから始めないと。日本は素敵な場所がたくさんあるじゃない。」
ということで、日本を見てみよう!の旅に出ます。
借金の返済もしなければならないので、東京を飛び出して、そこで働くということにしました。
選んだ方法はリゾートバイト、これは観光名所で住み込みで短期間働くというもの。
選んだのは山形県の蔵王。スキー場と温泉がある旅館で住み込みで働きます。
インドから逃げ帰ってきたボクはそのイヤな記憶から逃避するために雪が降っている地域を選んだのです。
そこには2人の中国人実習生の女の子も働いていました。日本語もあまり上手ではなかったので、ボクが通訳をします。外国人のお客さんの通訳やほかにはパンフレットを英語と中国語に翻訳するなど重宝がられました。
大半の仕事は、掃除とベッドメイキングです。
ちなみに、旅館のみなさんはとても良く、いい思い出がたくさんできました。以下で紹介しますが、ここの旅館にはもう一度はたらきに来ています。
中国人実習生の話にもどります。彼女たちは労働時間も長く、1日10時間以上。それで月5万円です。
仲良くなった旅館の人にそのことを話すと、旅館は正規の料金を出しているとのことです。
ちなみにボクの時給は850円で、月20万ちかくありました。
ある日、仲介業者の人がくるというので、ボクも同席して通訳しました。仲介の男性はボクが中国語がわかることがすこし迷惑なようでした。
一緒に働かないかとスカウトがあったのですが、それはことわりました。
(このひとが違法ブローカーであることが後にわかります。)
彼女たちはその後、千葉県のホテルに移ります。ホテルには部屋に鍵がなく、まわりのおじさんたちも扱いがひどいと聞き、ボクはお客としてそのホテルに泊まりに行きました。
彼女たちの話を聞き、ホテルのおじさんにそのことを話すと、おじさんは激情し、
「中国の女が男を連れ込んだ。」と仲介業者に文句を言い、ボクと彼女たちは謝罪を迫られ、彼女たちはホテルをクビになります。
その後、彼女たちは新潟の旅館に移されました。
仲介業者の男はボクに電話をかけてきて、
「おたくの住所は知ってる。我々は〇〇組がバックについてるからあまり余計なことはしないほうがいい。」と脅されました。
まぁこのようにいろいろあったわけですが、その時の実習生のうちの一人とのちに自分のお嫁さんになるとは想像もしていませんでした。
≫【スキー場リゾバ体験談】山形でリゾバ短期の住み込み!そこで出会った女性が今の妻です。
再び中国へ
ボクは再び中国へ行くことを決意しました。
東京に戻って、以前つとめていた塾で講師をしたり、派遣の仕事をしたりして資金を貯めました。
山形の旅館にも2週間のお誘いがあったので行きました。
(交通費で給料の半分が飛びましたが…)
浙江省へ
そして、再び中国の土を踏むことになりました。
彼女の出身地である浙江省の寧波市というところです。
仕事もなにも決まっていない状態で、飛び込んできたわけなので、まずは仕事を探さなければなりません。
運良く、彼女のともだちのつてで日本語教師の仕事ができることになりました。
そこで日本語教師として数年間すごしました。
このときの経験も本当にいい思い出になっています。
上海へ
ドラマに出たときに知り合った人から上海の日本料理店で働かないかという誘いをもらいます。
高級日本料理店で、ボクはただ「いらっしゃいませ」と言って、お客さんの感想を聞くというだけ。
妻は着物を来て案内したり、飲み物をつくるという仕事で月に35〜40万円もらえました。
しかし、半年くらいで経営が傾き出したのを機にやめて、ウズベキスタン人の友人に誘われて広東省に行きました。
彼とはボクが最初に行った東北の吉林省延吉市という町で知り合りました。
広東省の片田舎だったのですが、治安があまり良い地域ではなく、妻と外にいたときに殺人事件(未遂?)を目撃してしまったのです。
直接殺したというわけではなく、ハンマーらしきものを持った数人の男が女性を追いかけ、その女性は池に飛び込んだのです。
翌日、警察が取り囲んでいました。
それで、もうここはやめようということにし、妻の地元にもどります。
お金がなかったので、もういちどだけ抗日ドラマに参加しました。
日本で暮らそうか
ふたりで日本に行って、そこで生活していこうと決めました。
どうせ学歴で仕事は見つからないかもしれないから、資格はとっておいた方がいいなということでHSKという中国語の試験を受けました。
中国語の漢字があまり書けないので、作文の点数は低かったですが、180点で合格なので、安心しました。
中国で受験したのですが、受験者は3人だけで、そのうち一人が中国人で、もうひとりが日本の尼さんでした。
さらに、〇〇アカデミーという通訳養成学校があるのですが、そこを修了すれば仕事の斡旋もしてくれると聞いたので、そこに入ろうか迷っていました。
「学歴不問」のうそ
目星をつけていた「学歴不問」の中国語翻訳や通訳の募集案件に、帰国後さっそく応募しました。
返信があったのは、六本木にあるビットコインの会社です。
ここの面接に行くと、おばちゃんが出てきて、履歴書を見ながら話を聞きます。
「廣井さんは中国語ができるとありますが、どの程度できるのですか?これから試験をしますが、よろしいですか?」と始終冷たい態度のおばちゃんでしたが、脅すようにこのセリフを吐きました。
「はい。」と答えると、中国人の職員のおねえさん登場。
この人は感じのいい人で、中国語でおしゃべりをしました。おばちゃんは中国語わからないので、おねえさんもリラックスした感じで、このBBAは上司で、すごく冷たい、など共感してくれました。
そして、有益な情報ももらいました。このおねえさんはボクが行こうか迷っていた〇〇アカデミーの卒業生でした。
おねえさんが言うには、学費だけ高くて、修了しても仕事の斡旋をしてくれるわけではないし、思っていたのとはちがったというのです。
話し終わると、おばちゃんは
「廣井さんは帰化された方なんですか?」とこう聞くわけです。言外に差別的なニュアンスがしてムッとしました。
「いいえ、ちがいますけど…。」というと、
「それ、証明できるものあります?」と。この時点で、ここは採用されても絶対こねーと決めましたね。
結局、採用の連絡はありませんでしたが…。
応募を出したほかの会社からは面接の連絡すらありませんでした。
ずっと仕事がみつかりませんでした。
実家に住んでいたのですが、仕事がみつからないのを知り、ばあちゃんが、
「これメルカリで売っていいよ。お金になるかもしれないから。」とばあちゃんが若い時に集めていたという絵画や置物などを持ってきました。
ばあちゃんが大切にしていたのを知っていますから、これには胸が痛くなりました。
「このままじゃいけない…。もう中国へ帰ろう。」
再び中国へ、そして大学生に?
中国にもどってから、通信教育で大卒の資格をとろうと思い立ち、慶應義塾大学の通信制学部に応募しました。
審査もきびしいものではないようで、すぐに通り、教科書などを中国に送ってもらいました。
学歴がないからか、ボクは海外に出てからも勉強はつづけていました。いつか大学にもどることになっても大丈夫なようにという思いがあったように思います。
なので、通信制学部に入ったあとはワクワクしました。
同時に仕事も順調にすすみ、シンガポールの会社に採用してもらえて、インドネシアやニューヨーク、ロサンゼルス、バンクーバーなどいろいろ飛び回るようになったのです。
通信制学部は夏休みや冬休みに1ヶ月ほど通学して体育やら実験やらを受講しなければならないのと、そのほかに2〜3回、通学して試験を受けなければなりません。
そうすると、仕事と両立ができないわけで、通信制学部は退学することにしました。
いっきに大学院生に?
やはり、高卒であることには不安があり、ずっとなにかいい方法はないかと考えていました。
大学院の募集要項で、「大学卒業かそれに同等する者」とありました。
同等するってどうやって証明すりゃいいんだ?ということから、いくつかの大学にメールを送りました。
ほとんどが「大卒じゃなきゃダメ」という返信だったのですが、早稲田大学からは「論文を書いて提出してほしい」と返信がきました。
よっしゃー!これには飛び上がりました!
東洋哲学という学部でした。そのときは仕事で数カ国飛び回っていたので、論文でつかえそうな文献を日本語・中国語・英語であさりました。
担当者さんとも何度もメールのやりとりをしました。
ばあちゃん…。
早朝に突然、電話がはいります。
「ばあちゃんが階段から落ちて、いま病院にいるんだけど、もうダメかもしれない…。」
その日に妻と一緒に帰国しました。
お葬式のあと、ばあちゃんが「これメルカリで売ってお金にしな」と自分の宝物をもってきてくれたことを思い出しました。
大学院に行ったら、勉強して、日本で就職しよう。そして日本でこどもを産んで、ばあちゃんを安心させよう。
そう妻と決めました。
ウソでしょ?
急いで論文を完成させて、早稲田大学の担当者に連絡しました。
郵送してほしいと言われていたので、いま日本に帰国しているので直接もって行ってもいいかと聞きました。
直接もっていくことで採用してもらえる可能性も高まるのかな?
ばあちゃんがそうしてくれたんだ。
そんな風におもえました。
メールの返信がなかなか来なくて、数日後やっと短い返信がとどきました。
「やはり実績がないことには論文を読んだところで採用というわけにはいきません。」
なんだとおぉぉぉ???
はやく言えや!!!!
これには絶句しました。家族もよろこんでいたので、これには落胆したようでした…。
受験生に、ふたたび
こうなったからには、最初から受験してやろうと決めました。もちろん働きながらです。
学費の問題がありますから、やすいところを選ばなければなりません。
それで国立にしぼり、現役時代うけた東大に再チャレンジしようと決めました。
このとき29歳。
今回は作戦を変えます。
現役時代は理科2類というところを受けたのですが、今回は文系にします。
入学最低点が一番ひくいのは文科3類なので、そこにしました。
そして受験で中国語をつかいます。センター試験(受験するときは共通テストに変わっている)も二次試験も中国語を選びます。
センターでは数学・国語・中国語・地理B・世界史B・物理基礎・生物基礎、
2次試験では数学・国語・中国語・地理B・世界史Bを選択しました。
中国で受験生
日本で受験参考書を買って、それを中国に持って帰りました。
もちろん仕事をしながらですが、仕事以外の時間はすべて勉強に費やしました。
不思議なもので学生時代よりも勉強がたのしかったのです。
数学は公式などもわすれていて、さらに新課程になっていて、現役時には範囲になかった「確率分布」や「複素数平面」「データの活用」などの単元があり、ほとんどの時間を数学に費やしました。
現役時にからっきしダメだった国語は、いままでの読書経験があるからか、意外にできました。
漢文も中国語がわかる分、とっつきやすかったですね。
古文も外国語を勉強する方法で単語を100個くらい覚えたら、徒然草や雨月物語、竹取物語などを原文で多読しました。
地理も世界を飛び回っていたので、イメージしやすかったし、世界史もスタサプで勉強していたので、すこしの知識はありました。
いざ、受験!
受験は2020年です。
母校に連絡して卒業証明書をもらうわけですが、さすがにおどろいていましたね。30ちかくになってまた受験するなんて…。
センター試験はこの年に共通テストに変わります。受験費も払い、会場案内もきました。
受験会場は東大です。実家からは歩いて30分〜40分で行ける距離です。
ちょっぴり自信はあったのですが、受験がちかづくにつれて、毎晩ねむれない日々がつづきました。
不安だったのですね。
そうして、1月に入ります。共通試験は1月です。
やはり、順風満帆にはいかないもので、ちょうどそのときに新型コロナウイルスが出てきました。
このせいで予定していた日に帰国できません。
ということは共通テストに参加できないのです。
最初は絶望しました。1年間、仕事以外の時間を受験勉強に費やしてきたのに…。
しかし、落ち着いてくると重荷がおりたような感じにもなりました。
まぁ受けても合格していなかったかもですが、受験のプレッシャーがひどくて、精神的に参っていたのですね。
こういうことなら現実逃避して、受けたら受かってたかもしれないけどなんて自分を慰めることもできますしね。
日本から出られなくなる
春ころに帰国できるようになり、当初のチケットが無料で日にち変更できたので、2ヶ月ほど遅れて、妻と日本に帰国することができました。
またまた予定通りにはいかないできごとが起こります。
中国が国を封鎖してしまったのです。
それで、逆に中国に帰ることができなくなってしまいました。
結局、半年以上もの間、日本にいることになりました。
東京入国管理局のスタッフの冷たさ
妻のビザが期限切れになったので、延長しに東京入国管理局へ行かなければなりませんでした。実際は期限内に出国する必要があるのですが、コロナ禍は特殊な状況なので、延長してもらえます。
そのために品川にある東京入国管理局に出向いたわけですが、スタッフはタメ口で、態度もひどいものでした。
ボクのことも外国人だと思っているのか、「きみは日本語うまいね。」とか言い出す始末。
まわりの外国人たちも同じような態度をとられていて、日本語があまりできない外国人に対してはもっとひどい言葉遣いをしていました。
妻のおとうさん
妻のおとうさんはこの数ヶ月まえに、肝臓がんと診断されていました。
お酒もたばこもやらず、健康には気を遣っていたのに…。
地元の病院では治療できないと言われ、月に1回、新幹線で上海へ治療を受けに行っていました。
それでコロナが蔓延したあとは、移動もできず、ながいこと治療を受けられなかったのです。
ボクと妻が帰国して、隔離が終わったあと数カ月後に55歳という若さで亡くなってしまいました。
間に合ったのだけがなによりもの救いです。
やっと中国へ、そして大連で隔離
半年以上経って、やっと中国へもどれるようになりました。
しかし、隔離は遠く離れた大連のホテル。
この14日間の隔離生活のあいだもいろいろなことがありました。
本として出版されているので、読んでもらえるとうれしいです。
【体験談】中国大連14日間ホテル隔離生活の全記録!朝昼晩全食の写真つきだよ!
毎日、動画として記録もしていたので、興味のあるひとはぜひチェックしてみてくださいね。
このように中国語ができたから、ジャッキー・チェンに会えて、ドラマにも出演できて、多くのともだちに恵まれ、インドでも台湾人に助けてもらい、受験でも希望をくれ、仕事でも大いに役に立ち、さらに結婚までできて、移住もしました。
さらに中国語で経験したことをブログで発信することもできると知り、このように発信もはじめました。
最後までありがとうございました。
ここでボクの好きな歌詞を紹介しておわかれしましょう。
別々の国に生まれた
槇原敬之”lose no time“
2人がぎゅっと手をつなぎながら
この街の景色の中
幸せそうに歩くのを見た
二人の国が今突然
争い始めたとしても
その手をどうか離さないで
よけいに強く繋ぎあっていて
愛を誓い合えたり
心から分かり合える友になれる人が
自分の国にいるとは限らないと
誰もが信じられる時が来ればいい